「君は、集合論、数学基礎論に於いて始まりの自然数が何であるか知っているかな?兎尽月君」

「それはゼロに決まっているでしょう」
「――――――ふむ、その通り。確かに自然数の始まりはゼロだ。だがこの“0”という数字を君は一体どれだけ正確に把握出来ているのだろうね?」
「?よく意味がわかりませんが………、0は−1の次の数字で1の前の数字のことでしょう?」
「………あぁ、その通り。その通りだよ、兎尽月君。いや、君は本当に頭がいいな。敬意に値するよ。本来なら私のこの豊満な胸にそのこの世の欲という欲を全て具現化したかのような兎尽月君の汚らわしい顔を埋れさせてやりたいところなのだが、生憎場所が場所なのでな。控えさせてもらうとしよう。………まったく、君の理解能力とはどれぐらいのものかと思えば。まさかこの私がそんな小学生でも理解るようなことを訊いているとでも思っているのかな?そうだと謂うのなら、君は随分とめでたいシナプス構造をお持ちのようだね。もしかしたら君の脳内では情報が刺激として輸送される際に大胆かつ馬鹿げた変換を起こしてしまっているのかもしれないね。それはいけない。それはいけないよ、兎尽月君。この私がいい病院を紹介してあげよう。其処の脳外科でしっかりと診てもらうといい」
「………」
「おおっと。そんな怖い顔をしないでくれよ。元々出来の悪い顔がさらに歪んでいるぞ。もしかして私の言葉に気を悪くしたのかな?悪いが、これが私の性質なんでね。こればかりは変えようがないのだよ。喩えば生物が栄養を摂取しなければ死んでしまうように、それは私にとって当然に自然なことなのだ。つまり自然の摂理に『私』という存在が既に組み込まれていて、それはそれであって当然。そんなモノに気をたてるなんて例えば其処等に生えている木々に向かって文句をつけるようなものだよ」
「………で、それがどうしたっていうんです?」
「………おや。おやおや………、随分と無理やり話題を戻すね。うむ、だがそれも悪くない。悪くないよ。そういう男、私は嫌いじゃないぞ。漫画や小説における主人公というのは得てして大概が自分勝手なものだからな。………で、何の話だったかな?あぁ、そうそう。『ルネッサンスとそれ以後の美術の変容』について熱く語り合っていたんだっけね」
「………ゼロについてですよ」
「あぁ、そうだったな。………つまりだね、ゼロを数字として捉えてはいけないのではないか、ということだよ、兎尽月君。そうは思わないかね?数字という枠組みに嵌め込むにしては如何せんそれは逸脱しすぎている」
「………?」
「つまり、喩えば、1や2といった0以外の数字はある法則に則って四則計算出来るにも関わらず、ゼロはそのどれにも参加出来ない。足しても引いても意味が無い。かけると無になる。割っても、無限に広がる。このようにゼロは他の数字とは一線を画する存在なのだ。さて………、何故だと思う?」
「………?」
「………、おいおい。おいおい、待ってくれよ兎尽月君。君のその頭は、その頭蓋骨は超前衛的美術作品か何かなのか?もしくは不細工で役立たずな花瓶なのか?花でも生けてやろうか?されたくないのならば、少しはその自分の頭で考えて答えを導き出そうとしてみたまえ。一応は君もホモ=サピエンスだろう?脳ミソ、あるんだろう?同属である他の人の身にもなってみろ。君のような愚鈍で出来損ないな存在が本来高潔で高等な人間という存在を最悪へと貶めているんだぞ?そこを君はちゃんと理解しているのかな?よくそれで生きていて恥ずかしくないな………」
「やべぇなんか涙が出てきたんですけど」
「まぁ此処で君の無能さを証明してみせるのもまた一興だが、それでこの状況が打開されるとは到底思えないしな。残念ながら私は君の愚かしき一挙一同に付き合ってあげられる程暇ではないのだ」
「暇じゃないんだったら帰らせてください………」
「さて、つまりだね。ゼロとは数字ではなく、その数字という概念が生まれる為の出発点なのだよ」
「………」
「数字にカテゴライズされていながら、実のところそれはそれの根源。ソレがそれである為の起源。数字はゼロに始まり、ゼロに還る。そういった矛盾律の上で成り立つ正統の原点」
「………原点、ね」
「そう。ゼロは二平面ではなく三平面の存在。そもそも他のものとは次元が違うのだよ。だから足しても意味がない。だから引いても意義がない。掛ければ侵すし、割れば無限に。故にそれは根源にして起源」
「………」
「そう考えるとね、兎尽月君。この街もその“ゼロ”と同じ意義を持つと考えられないかね?」
「………っ、あぁ、先生は其れが言いたかったのか」
「ようやく解ってくれたか。なるほど、君ほど矮小な脳ミソでもこれだけ噛み砕いて言えば解るものなのだな。感心感心。………そう、全ての始まり。物語の始点。それでありながら終点でもある絶対存在。全ての物語はこの街から派生し、この街に帰結する。夢の泡沫が現実にしか存在できないのと等しく、それは当たり前に其処にある。人はそれを“ゼロ”と呼ぶ」
「………“ゼロ”、ね。ならそれ以前は、此処がソレに成る以前は、きっとあの戦場が、あの惨状が、“ゼロ”として機能していたんだろうな」
「あれの場合、戦場が、というより戦争という事象それ自体が“ゼロ”として機能していたのだろう。そしてその収斂の地は連続性を維持したままこの街へと移った。もしくは、成り代わった………。まるで生き物だな。くくっ、面白い。実に愉快だ」
「ココまで都合が良すぎると、ココまでご都合主義だと、まるで意図に絡め取られた人形になったような気分がするな………」

「だが君の言葉を借りるなら、――――――それこそまさに、因果だろう?」

「………はっ、まぁ確かにその通りですね、先生」


「まったくその通りさ、兎尽月君。世界なんて――――――こんなものだよ」








向日葵の小唄

詠怨















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