彼女は。

彼女は――――――其処にいた。

それは高層ビルの屋上。

星々が囁き、風々が嘲る、空に最も近い場所。

そしてその嗤い声の響く空の下、彼らは立っていた。

「ふふふ。月が、本当に近い………。手を伸ばせば届いてしまいそう」

一人は《謳姫》、灰原仄香。

彼女は身体を翻しながら、手を空へと翳す。

その揺らぐ姿は舞台を舞う聖女を想起させるほどに、美しい。

「そう思わない?ねぇ、96号」

それに対峙するは、《月硝子》、兎尽月黒。

彼は身に纏った黒装束を風に遊ばせながら、愉快げに貌を歪めた。

「まったく、その通りだ。ったく随分と詩的な事云ってくれるじゃぁないか、灰原仄香」
「今日はとっても気分がいいの。何せ今宵を以って、ようやく貴方をこの手で殺すことが出来るのだもの」
仄香は真っ直ぐ黒に向かい合う。
彼女の眼には、既に目の前の男しか映っていない。

眼の前に立つ、一つの末路しか彼女の眼には入っていなかった。

「ふふ………、こんなに月が綺麗なのだから、ちゃっちゃと終わらせて仕舞いましょ。貴方は――――――此処で死んでください」

相対する、二つの影。

まるであたかも影芝居。

なれば彼らは糸に繰られる二つの傀儡。

操る糸は、空に繋がり物語を紡ぐ、幾重もの結末。


「はっ、同感だ。さっさとこの因果を――――――断ち切るとしよう」


そして夜空に浮かぶ月が、黒の髪に色を落とす。

何処か霞みを帯びたその色は、闇の中によく映えた。

「さぁ――――――」

鴉は翼を広げ、囀る。

いつものように。

いつもと変らず。
彼を彼たらしめる、その
呪詛(コトバ)を。


「――――――己に、懺悔しな」








その月の舞踏会は、余りに偏執した暴力に支配されていた。

「――――――っ」
鴉は一気に踏み込み、仄香の懐まで跳躍。
それを仄香は後退しながら、回避する。
だが――――――遅い。
遅すぎる。
「っ!?」
鴉は即座に身体を回転させ、回し蹴りを仄香の開いた脇腹に叩き込む。
それは深々と突き刺さり、彼女の内臓に撃ち込まれる。
「ぐがっ………!」
「ふん、一般人にしてはやる方かもしれんが………、まだまだだな。まだまだ足りない。オレの相手をするのは――――――百年早ぇ」
兎尽月黒の――――――否、鴉の姿はもう仄香の眼前には無い。
「っ!!!」
仄香は必至に彼の姿を追うが、眼が追いつく前に彼女の視界は大きく揺さぶられた。
鴉が彼女のこめかみに一撃を叩き込んだのだ。
「ぐぅっ………!!」
視界と一緒にブレたその意識を無理やり引き戻し、仄香は出鱈目に後ろに向けて裏拳を繰り出す。
「はっ、莫迦。こっちだよ」
それは悲しく空を斬り、
何時の間にか後ろに回りこんだ鴉は仄香の脊髄に向けて衝撃を、


「――――――この、人殺し」

与える事は、出来なかった。


ぎちっ


鴉の動きが、止まる。

「………はぁはぁ、はぁ」
「………ちっ」
「………は、はぁ、………、………ふ、ふふ」
「………」
「ふふふ………、あはは………、はははははははははは!!」
鴉の動きが止まった事を確認すると、仄香は狂ったように嗤いだした。
狂えるように狂えるように。
壊れるように壊れるように。
「ふ、ふふ………、人殺し、人殺し、ヒトゴロシ………」
「………っ」
身体が更に重さを増す。
空間が更に重さを増す。

それでも。

それでもまだ、大丈夫。

身体はまだ動く。

身体を動かすことが出来る。

「ねぇ、96号?貴方は自分がどれぐらいの人を殺したか憶えてる?殺していった人の最期の表情は?殺していく時って、どんな感触なの?」
「………」

ぎちっ

「………ふふ、答えられないの?それとも堪えられないのかしら?………まぁいいわ。貴方にちょっとでも罪悪感があるのなら――――――此処で大人しく死ぬことね」
「――――――」

オレが彼女の娘を殺した。

それが真実なのか、それは解らない。

確かめる術も、ない。

解らない程に、オレは人を殺しすぎた。

解らなくなる程に、人を壊しすぎた。

殺して殺して殺して。

壊して壊して壊して。

オレは余りにも、罪を重ねすぎた。


――――――だから

だから、一つの罪ぐらいは、償おう。

オレの一生を持ってして、一つの罪を償おう。

その為に。

少しでいい。

一瞬でもいい。

身体が引き千切れたっていい。

もう二度と動けなくなったって、きっと仕方がないだろう。

だから。

だから。

動け。

動け。

身体よ、動け。


――――――ぎちっ


「せめて愛していた人を想いながら、朽ちなさい。小夜なら――――――96号」
「………はっ………」
「………っ、何が可笑しい」
「おいおい、灰原仄香。お前、何か勘違いしてないか?」
「えっ?」
そして、鴉は、跳んだ。
彼は灰原仄香の頭上を越えると、まるで猫のように身体を回転させ危なげもなく着地する。
「なっ!?」
別にその程度の跳躍、驚くべくでもない。
元々彼らはそう造られている。
元々そのように設計されている。
だから仄香が驚いたのはそこではなく、
「な、なんで、なんで身体を動かせるの!?」
その一点だった。

「はっ、愚かなり人間!!てめぇ如きの魔術、このオレが見抜けぬとでも思ったか?」

鴉は――――――哂う。

笑うのではなく、嗤うでもなく、彼は――――――哂う。

嘲り、嘲哂う。

「なっ………、なに、よ………、貴方、どうして………」
「貴様の魔術を教えてやろうか?あんたの纏縛術。それは人間の罪の意識に反映する、断罪の鎖。――――――つまり、罪の意識が己の身体を縛りつけ、束縛する」

「――――――っ」

「最初は――――――あんたの憎しみの心がオレを縛り付けているのかと思っていた。………だが違った。それは真実ではなかった。そう、そんな受動的なモノではなくもっと能動的なモノだったんだよ」

そう。

それが最終的に残った二択の選択肢。

想われるのか、想うのか。

「ど、どうして………、なんで、解った」

「じゃぁ逆に尋ねるが、なら如何してあんたは最初からオレの身体を拘束しなかったんだ?」

「――――――あっ」
簡単な事だ。

気がつかなかったのは、慢心の所為。

出口を目前にして、其処しか見えていなかったが故の失念。

彼女は最後にして、最悪な間違いを犯した。

「それが答えだよ、《復讐者》さん。魔術なんてな、種を明かしてしまえば奇術でしかない。だがあんたのは、奇術ですらない。奇術にも劣る」

「あっ、………あぁ………、あぅ………」

鴉のその威圧感が、灰原仄香を後退させる。

まるで、逆様だ。

滑稽で。

傑作で。

あからさまに裏側な、不出来な悲劇。

「極度の精神緊張状態の継続による
筋肉硬直(カタレプシー)。あんたのソレは、高々そんなもんなんだよ。そんな小細工、このオレには通用しない。感情に原因があるのなら、そのまま感情を遮断してしまえばいい」

「………、そ、そんなことが………、出来るわけ………」

「………はん、確かに人間ならな。だがな、忘れるなよ、灰原仄香。オレは――――――人間失格だぜ?」

人間、失格

――――――私の目の前にいるのは、誰だ?

灰原仄香は恐怖する。

アレは、アレは、人間じゃない。

人間にも劣る、人間以上の存在。

そう。

謂うなればそれは――――――鬼。

人を殺し続けた、殺人鬼。


………あぁ


仄香は後悔する。

あんなのに正面から挑むんじゃなかった。

挑むべきではなかった。

立ち向かえるわけが無い。

敵うはずがない。

ソレこそ彼の云う所の――――――人間失格

「あっ………、あぁ………!!」

じゃり、

足を後ろに運びながら――――――当然仄香には後ろが見えていない。

そして彼女は失念していた。

此処が高層ビルの屋上であることも。

ヘリポートとなっているその場所にフェンスなどないということも。

彼女の後ろにはただただ昏い空が広がり。

万有引力の法則に従順に従う、その空間は真実死と直結している。


「――――――灰原仄香、呪詛の謳姫よ。お前は死ね。オレは生きる」


「あ………」

そして、灰原仄香は、落ちた。

万有引力に随って、その身体は落ちていく。


落ちる。


落ちる。


落ちる。


その身体は墜落し、その魂は堕落する。

――――――あぁ、私、死ぬのか………

結局、何処にも辿り着けないまま、彼女は死ぬらしい。

どんなに踠いても、どんなに足掻いても、それはどれ一つ結実する事無く、終焉を迎える。

それは――――――あまりにも凄惨な結末。

罪もない親子の招いた、身に余る程の残酷な顛末。


彼女が最期に見たモノは。

夫の姿と。

最愛の娘、飛鳥の姿だった。



ごめんね。ごめんね――――――飛鳥。





べちゃっ











×××




痛覚を剥奪された黒にとって、己の身体から流れ出る血を見る事は何よりもうれしかった。

断罪の鎖とはつまり、罪悪感の具現。

なれば自分にも、まだ罪の意識が残っているらしい。

血を見ることでソレをより強く実感することが出来る。

「………はは」


ぎちり、


だが、この愉悦の一時もいずれ終わる。

術者が死に絶えたのだから、それも当然。

だからこれはあくまで彼女の残滓で。

そして、己の慙愧でしかない。

「はは、はははははは!」

彼は、哂う。

今度は欺いて嗤うのではなく、嘲るように哂う。

自分の愚かさに。

自分の拙さに。

彼は何時までも哂い続ける。


自虐と悲痛に満ちていて、とても聞くに堪えない、あまりに悲しくて、あまりにも苦しい、その声は。


その声は、まるで翼を捥がれた鴉の泣き声のよう。


「………兎尽月」

唐突に、眼の前に影が現れた。

「は、はは………、なんだ、ポンか」

黒は楽しそうに貌を歪める。

「どうだ、ポン。オレは見事、あの女を殺してみせた。はは、だから言っただろ?オレは平穏の為なら誰だって殺せるんだ」

だが、ポンは何も言わない。

ただただ、寂しそうに佇んでいる。

「………兎尽月、帰ろう」

「は、ははは………、ははは!」


そして。


黒は、終ぞ自分の流す涙に気がつかなかった。











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