「おかえりです、くろ兄」

深夜、その古アパートに帰ると音締ねじれが階段の下で待っていた。
音締ねじれ。
中等部に在学中の二年生で黒の隣人でもある彼女のその身体はまだまだ未成熟で、ともすれば小学生と偽れるのではないかと思ってしまうほどだ。
童顔未熟。
それが彼女の主たる身体的特徴。
だが、それだけでない。
彼女にはそんなモノよりもずっと、特異な身体的特徴があった。
「あぁ……、ただいま」
長く伸びる影には、何かが欠けている。
人間としてあるべき部位。
人間に無くてはならない部品。
それが決定的にまで、欠如し、欠落している。
それは――――――片腕だ。
そう、彼女には、片腕がなかった。
本来体積を持つべきその袖を、冷めることのないその風が揺らし続ける。

なんとも悲しい姿だ。

なんとも哀しい姿だ。

それは黒の不始末の結果。

黒の罪の、具現。

「また、行ってきたですか?」
「………ご名答」
まったく本当に彼女は勘が鋭い。
どうしてオレが外に出ていたことなどわかるのだろうか。
「まったく、あなたって人は………!行く時はねじれちゃんに言ってくださいって言ったじゃないですか」
「悪い悪い。すっかり忘れてた」
「………」
ねじめは懐疑の眼で黒を睨んでくる。
「………、わかった。ごめん。嘘です。僕、また勝手に外に出てました」
「はい、よくできました。………まったく、くろ兄は一人にすると何しでかすかわかったもんじゃないんだから………」
ねじれは嘆息しながら黒の身体を値踏みするように見回し、それが一通り済むと小さく一度頷いた。
「………うん。怪我はないっぽいですね」
「あぁ………。ちょっとばかし乱闘になったが、怪我はないよ」
「うん、うん………。とりあえずは、よかったです。安心しました」
ほっと胸を撫で下ろすように、ねじれは息を吐いた。

その姿を見て、黒は思う。

――――――あぁ……、これだから………

「まぁ、それはともかく………。これから外に出る時はちゃんとねじれちゃんに教えてくださいね。くろ兄が怪我しちゃったら元もこうもないんですから」
「………あぁ。わかったよ、ねじれちゃん」

――――――これだから、この子は苦手だ。

この子は優しすぎる。

このオレには、似つかわしくない。

分不相応も甚だしい。

そんなに優しくされても、オレは君に何も返してやることは出来ない。

むしろオレは………、オレは君を傷つけてしまったというのに。

それなのに、如何して。


如何して、君は――――――


「………そうだ、ねじれちゃん。待っててくれたお礼にちょっと出かけねぇか?」
黒の言葉にねじれは一度顔を輝かせるが、すぐにその顔には不安の色が浮かぶ。
「あぅ………、でもあお姉に怒られてしまうですよ?」
「心配すんなって。そんな遅く帰る気はないし、ばれなきゃ問題ねぇよ」
「うぅ、でも………」
「なんだよ、もしかしてオレと一緒にいるのいやか?」
「そ、そんなことないですよ!ただ、まだ心の準備が………」
「?心の準備なんて必要ねぇだろ」
「必要ですよ!だって………、こういうことはもっとちゃんと順序を踏んでいかなきゃ駄目じゃないですか………」
「順序ぉ?なんだそれ」
「もう………、くろ兄ったらせっかちさんですね………。………わかったです。でもねじれちゃん初めてですから、優しくしてくださいね?」
………ちょっと待て。
なんか話しが噛みあってないぞ?
「………あのな、ねじれちゃん。一応言っておくが、これから行くのは至極健全なファミリーレストランであって、決してピンク色の看板に休憩料金の書かれた場所じゃないからな?」
「えっ?ちがったですか?」
「当たり前だろ!?誰がおまえをそんなところに連れ込むか!!」
「くろ兄。それはそれで傷つくですよ……」
「………うっ」






「くろ兄は天使を信じていますか?」

深夜ということもあり、空席だらけのファミリーレストラン。

二人はそのがら空きの観客席の更に端っこで陣取っていた。

「天使?なんだよ、いきなり」
黒はねじれからの思いもよらぬ質問に眼を丸くする。
「いいからいいから。くろ兄は信じてるですか?」
「ん〜……、オレは基本信じてないが」
「ふむふむ」
「それが如何した?」
「いやぁ、前にめいめいがそんなことを言ってたことを不意に思い出したです。『お前は、天使の存在を信じているか?』って」
「めいめい?………迷路のことか?」
「そうです」
………あの馬鹿、ねじれに自分の事めいめいと呼ばせてんのかよ。
趣味悪いなぁ。
「天使を信じているか、ねぇ。……あー、でもあいつなら言い出しかねんな。アイツ、馬鹿な癖にやけにロマンティストだし」
「めいめいは天使はいるっていったですよ」
「ほう、その心は?」
「曰く、この眼で見たとか」
「………」
「うわ、あからさまに疑ってる!」
「いやぁ……、だって」
あの迷路だぞ?
胡散臭いにも程がある。
「なんでも天使はこの世界に二人いて、めいめいはそのうちの黒い方に逢ったそうです」
「黒い方?もう一人はなんだってんだよ」
「確か………、もう一人は銀色で、この街の何処かにいるらしいですよ」
「この街に?ふぅん………」
この街に、ね。
………ん?
黒色と銀色?
あぁ………、それって。
「………それって、もしかしてアイツらのことか?」
「?心当たりあるですか?」
「まぁな。………でも、確かに考えてみればそうか。アイツらを天使と称して崇める奴らもいるし」
黒は天井を仰ぐ。其処には電飾が設置され、その白じみた光は空間全体を明るく照らし出し、その輪郭を明確にさせる。
「まぁ………、あれだよな。それでもオレはアイツらを天使だとは思ってない。アイツらは天使なんて崇高な言葉じゃなく、人間失格と呼んだほうがずっと似合ってる」
「くろ兄はその天使さん達を天使だとは思ってないのですか?」
「あぁ、アイツらは天使なんかじゃない。ただ単に感情が壊れただけの、人間失格だよ」
「感情が壊れた……?」
「もしくは感情がはなから欠如しているというべきか。そのココロの壊れ方があまりに天使のソレに酷似してたもんで誰かは彼女らを“天使”と名づけたらしいがな、オレはそうは思わない。天使ってのはいわば人間の希望だ。希望は輪郭をはっきりとさせた時点で願望に貶められる。だから天使ってのはそもそもオレらの理想の中にしかいないものなんだよ」
「むむぅ………、めいめいとは全然違う考えですね。めいめいは『天使ってのはいわばその性質の別名だ。でも世界にそんな馬鹿げた性質を持った人間がいるべくもない。だから人々はその姿を偶像化、具体化したのさ。ひゃはは、つまりだな。今人間が思い描いた天使の像は正しく間違っていて、要するに彼女らこそ天使の在るべき姿なんだよ』、とかうんぬん………」
ねじれは迷路のしゃべり方を真似しながら雄弁に語る。
それがまた迷路の特徴をうまい具合に掴んでいて、驚かされた。
「おまっ……、物真似うまくね?」
「にしし〜、どうだ、参ったかです。栞姉、直伝ですよ」
「………マジで?」
「まじで」
………姉御ぉ………、またいらんことを伝授しちゃって………。
この前はピッキングの仕方とか教えてなかったか?
しかもあいつの場合、それをまったくの善意でやってるってんだから性質が悪いよなぁ。
文句も言いづらい。
「ん?どうしたですか?」
「いや、ってほんと栞っていい奴だなって思って」
「です。ねじれちゃん、栞姉大好きです」
無邪気に笑うねじれを見て、なんとなく苦笑してしまう黒。

――――――ほんと、純粋な奴だよな、こいつ

そんな暖かい感情に浸りながら、黒は冷めたコーヒーを啜った。












Back
Next
Return