「………ぇ、………ぁ………」

声にならない悲鳴。

彼女は己の眼を疑う。

眼球が受容するその画像を。

脳が認識するその映像を。

その全を彼女は否定する。

在り得ない。

アリエナイ。

ありえない――――――

ソレは人工照明に飼い慣らされ昏闇を畏れる様に為った人間が生み出した世界のカゲ。

ソレは都市という巨大な化け物が飽和状態の胃から吐き出した不純物だらけの副産物。


故に澪は簡単に目の前にいるソレを容認する事が出来なかった。

「………はっ。ったく、随分と、捜し回っちまったぜ」

「う………、あ………」


“鴉”。


それは金色の夜に忽然と現れる、金髪の吸血鬼。

宴町でまことしやかに囁かれる都市伝説上の存在。

「あ、貴方は………、」

「ハローハロー、お嬢さん」

彼の後ろには建設途中のまま破棄された憐れな建造物が聳え立ち、その隙間からは不気味な満月が小さく嗤う。

そしてその不気味な光は鴉の姿をより際立たせ、ソレが異形である事を何よりも証明していた。

「オレは排斥者(アンチウィルス)、鴉――――――お初にお目にかかる、エンブリオよ」


眼の前に、その伝説がいた。



「………ひ、あぁ………」

何故そんなモノがこんなところにいるのか。

何故そんなモノが自分の前に現れるのか。

何故、この最悪のタイミングで現れたのか。

澪の思考が混乱し、ぐちゃぐちゃに掻き乱される。


――――――ひゃはは、お嬢さん。お前、“普通”じゃないな?

………五月蠅い

―――――キミは、不幸を招く

五月蠅い!そんなことわかってる!!




「………ま、しないでよ………」
「?」
「邪魔しないで………!其処を退きなさい、鴉!!」

鴉の背後の鉄骨群が、ぐらりと揺れる。

そのうちの一本がそこから脱落し、鴉目掛けて落下てきた。
「ぬおっ!」
鴉はソレを横跳びで回避する。
直後、彼の立っていた地面に鉄筋が酷い音を発てて突き刺さった。
「あっぶねぇ………。ひゅぅ、お前そんなことも出来ちまうのかよ………」
危うく殺されるところだったにも関わらず、鴉は尚飄々と笑う。
ソレが澪をより苛立たせる。
「っ………!なんなの………なんなのよ………!!如何して………、如何して邪魔するの!?」
「さーてね。オレにはあんたが何を言ってるんだか、まったくわかりませんよ………、っと!」
鴉は笑いながら次々と落ちて来る鉄筋を避ける。

「わたしは………わたしは………あそこにいちゃいけない………。だってわたしがいたら、誰かが傷つくんだもん!わたしがいたら、誰かが不幸になるもん!だからわたしはみんなから離れることにしたんじゃない!!なのに………なのになんで!?如何して、尽くわたしの邪魔をするのよ!!邪魔しないで、道を塞がないで、これ以上わたしに時間を与えないで!!」

これ以上、もう考えたくない。

止まらずに、何時までも歩いていたい。

そうすれば無駄な思考をしないですむ。

誰のことも思い出さないですむ。

お父さんのことも。

お母さんのことも。

友達のことも。

樹輔のことだって、きっと。


「………だから………、だから………」


ぐらり


鉄筋が再度大きく揺れる。


「だから、退いてよ、鴉!!わたしは、此処にいちゃいけないの!!」

そして終に耐え切れなくなったその鉄筋は鴉に向かって、次々と落下てきた。

「………っ」

鴉は横に跳ねて、ソレを回避しようとするが、

「………ちぃ」

鴉がソレに気がついた時には既に取り返しのつかぬ程手遅れで。


彼はその下敷きになった。






「………………、………ぇ?」

余りに拍子抜けな結末に澪はしばしその光景をただ呆然と眺めていた。

しかし時間が経つにつれて、彼女の眼球は神経と繋がり、脳が本来の機能を取り戻す。

そして澪はその鉄筋の残骸へと近づいていき、

「………ぁ、あ」


彼女はようやく、ソレの意味を知った。


「あぁああぁぁぁああああぁあぁぁあぁあぁぁぁあ!!!!!!!」


絶叫。


彼女は呪う。

己の不運を。

彼女は嘆く。

己の不幸を。

彼女は叫ぶ。

己の罪を。


そして彼女が底に視た虚夢は。



自分ナンテ、死ンデシマエ



「………」

澪は落ちていたガラス片を拾い、ソレを首元にあてる。

そう、自分なんて死んでしまえばいい。

自分がいない方が、みんなずっとシアワセだ。

だから、わたしは、此処で死のう。



眼を瞑れば、いつかの光景。

みんなと過ごした、日々。

彼を想った、今となっては懐かしい日々。


もう戻りはしないけれど、願わくば、最後くらいは、幸せなキオクを


「………さよなら………、さよなら、樹輔」

澪は手に力を籠め、そして――――――

「………ったく、如何してオレの周りには死にたがりが多いんだろうな」

そのガラス片は弾き飛ばされた。

顔を上げると、其処には先ほど鉄筋に押し潰された筈の鴉の姿が。

「………えっ?」
澪が信じられないといった表情で彼を見上げると、鴉は小さく嘆息する。
「………お前さ、仮にも吸血鬼と呼ばれるこのオレが、こんなモンでくたばるとでも思ってんのか?」
「………で、でも」
「この鴉が、こんな子供の玩具みてぇな不幸に屈する筈がねぇだろうが、バカ」

自分の招く不幸を子供の玩具と喩える鴉に澪は眼を丸くする。

だが鴉はそんなもの意に介さないように話を続ける。

「人間ってのはそんなに脆くねぇんだよ。この程度じゃ、死にはしない」
「でも………!」
「現にお前のすぐ身近にいるじゃないか。お前のもっとも近くにいるのに、ほとんどと云っていい程不幸に遭わない人間が」

「えっ………?」

そこで、鴉はいきなり後ろに跳び退いた。

彼の姿が闇に融ける。

「さーて、オレの出番はもう御終いだ。後は死ぬなり生きるなり、お前らで如何にかするんだな」

「………えっ?ど、どういう………」

澪は鴉の姿を探す。

だが眼の前にあるのは、ただただ全てを飲み込むような、常闇のみ。


そしてその泳ぐ視線はある一点で止まった。


「――――――――――――っ」


其処には。


「………ようやく、役者が揃ったようだしな」


其処には、榊枝樹輔がいた。














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