――――――はっは、はっ
逃げる逃げる、罪人は逃げる。
彼は路地を抜け、壁を越え、泥だらけになりながら、それでも彼は逃げ続ける。
何から逃げる?
何から逃れる?
――――――それは当然、鴉から。
彼は罪を犯し、人を冒し、モノを侵した。
初めはきっと何かしら意味があった。
しかし何時からかその行為そのものが目的に摩り替わった。
目的と手段の逆転、合一、同一視。

そして彼は人を殺した。ヒトを殺した。ひとをコロシタ。
何度思考したところで、何度反芻したところで、何度後悔したところで、何度死んだところで、何度殺したところで、その事実は決して変わらない。決して代われない。
代用品など、有り得ない。
代替品など、生り得ない。
だから彼は鴉から逃げる。
枯らされないように。
摘み取られないように。
だが、彼は理解っていない。
罪人は摘み人であると同時に、摘まれ人でもあるということを。
そしてそれは自然淘汰の如く、優劣によって淘汰されていくということを。

――――――×××

声がした。
その声は謳うように優雅で、詠うように低調な、中性的な声だった。
「………っ!」
「よう。今日も月の綺麗な――――――夜だな」
そして現れた、“(クロウ)”。
黒色のパーカを羽織り、フードを深く被っている為に髪の色は確認出来ないが、目だけは確かに赤く紅く、卑しくも輝いている。
しかし例え目の色も確認出来なかったとしても彼は彼を“鴉”だとすぐに悟っただろう。

彼が自分を刈る狩人だ、と。

彼こそ己を“枯らす”のだ、と。

「ったく、なんで“鴉”って仇名がついちまったのかねぇ………。オレはあんまその名前好きじゃないんだが………。それに月の下に現れるんなら、やっぱ兎だろう。お前、知ってるか?古来中国では太陽には鴉が、月には兎が、それぞれ存在すると考えられていたんだ。なっ?可笑しいだろ。月の下に現れる鴉って、頓知が利きすぎにも程があるってもんだ。洒落にもならねぇよ、ったく………」

鴉は心底残念そうにそう嘆く。
それはその場にあまりに似つかわしくなく、あまりに不釣合いな気軽さ。

「まぁ、いいや。―――――ところで人間」


「――――――因果応報って言葉、知ってるか?」










「澪!樹輔君が迎えに来てくれたぞ!早くなさい!」
「わかってるよぉ!!」
朝。澪はいつも樹輔と一緒に登校をしている。
今日もいつも通り樹輔が澪の家に迎えに来ていた。
「あぁ、もうなんでこんな時に限って!!」
澪はやや乱暴に櫛で髪をとかすが、はねた部分は強固な程に纏まってくれない。
「むぅ………、てぃ!!」
澪は手を水で濡らし、思い切りはねた髪を押さえつけた。それはあまりに気合がかった行いであり、身だしなみを整えると形容していいのかどうか不安である。
ともあれ急いで階段を駆け下りると、そこには雑談を交わす樹輔と澪の父親――――――織神恭一郎がいた。
「遅いぞ、澪。だから毎日もっと早く起きろと言っているんだ」
「もう、お父さんはいいの!」
「むっ………、まぁいい。早く行きなさい」
「はいはーい」
「樹輔くん、澪が変なことしたらよろしく頼むぞ」
「こいつの扱いは慣れてます」
「お父さん!余計なこと言わないでよ!!」
扉を閉め、澪と樹輔はいつもの坂道をのぼる。
その坂道は通称『心臓破り』と呼ばれ、かなりの傾斜を持つ坂だ。だが毎日そこを上り下りしている生徒達にとってその坂を上るのは日常の一ページにしかなりえない程にいつものことで、だから学生は特に苦悶の表情も浮かべずにこの坂をのぼっていく。
「にゅぅ………、ねむー」
澪は小さくあくびをし、目をこする。
「おまえ………、毎日何時に寝てんだよ」
「ん~、10時くらいかな」
「はやっ………。なんでソレで眠くなるんだ」
「今日は8時間くらいしか寝てないもん」
「充分だ、バカ。お前は小学生か!」
「毎日目標9時間睡眠!!」
「………」
小学生が、ここにいた。
「んっ?」
澪は何かに気づいたらしく、ややわざとらしく声をあげる。
「………どうしたんだよ」
「………あれ」
澪が指差す方向に樹輔が目を向けると、かぼちゃが一人の男子生徒となにやら楽しそうに話している姿があった。
「あー……、アイツは真尋だな。文月真尋」
その男子生徒に目をやりながら、樹輔は言う。
「文月、くん?あの人身長高いねぇ」
「橙崎と一緒にいるから余計にな」
真尋は元々男子の中でも身長が高い方だ。そこに女子の中でも小さめといってもいいかぼちゃが並べば、その差は歴然だろう。
「あの二人、付き合ってるのかなぁ」
「そうなんじゃないデスカ?」
「うへぇ………」
「………どうしたんだよ」
「なんでもないよぉ」
澪は舌を出してはにかみながら、だがその姿はなんだか愁いを帯びていた。










県立蒼瑛高校。繁華街を少し離れ、木々がまだ根強く残る静かな場所にそれは聳えている。
敷地は広く、中には旧校舎、新校舎、食堂棟、体育館の4つの校舎が存在し、旧校舎には職員室や各特別室が、新校舎には各教室が、食堂棟は一階に字面通り食堂、二、三階には大ホール、小ホールやPC室がそれぞれ配置されている。
「今日つくるのは、ピザとサラダです」
時間は3時間目。澪たち、2年A組の生徒達はこの旧校舎内にある第一調理室で家庭科の授業を受けていた。
今日の授業は調理実習。
生徒達は無駄口を漏らしつつも、作業に取り掛かっている。
「にゃー!エプロンが、結べない!!」
その教室の一角では手を必至に後ろへ伸ばしてエプロンの紐を結ぼうと踠く澪の姿があった。
どうやらうまく紐を結ぶことが出来ないらしい。
「都ちゃーん、結んでー!」
澪は同じ班の都に助けを求める。
「いやいや、私なんかより私の前にいるお兄さんの方がきっとうまく結んでくれるよ」
「結ぶのに上手いも下手もねえっつぅの………」
「キスケー、結んでー」
「………、ったく面倒くせぇなぁ」
なんだかんだ愚痴をこぼしながらも、樹輔は手際良く紐を結ぶ。
「ん。出来た」
「あんがと」
「………はいはい、ご馳走様、っと」
樹輔の隣で玉ねぎの皮を剥いでいた男子生徒―――神海深霧はそれを見よがし、呆れたように溜息をつく。
「あれ、神海くん。いたんだ」
「ひどぉっ!?」
「栢森は相変わらず容赦ねぇなぁ………」
「冗談よ。この私が神海君を忘れるわけないでしょう?」
「いや、普通にありそう」
「私信用ないなぁ」
否定しないところがますます怪しい。
「………まぁ、いいさ………。ところで織神、玉ねぎむき終わったけど、次はどうすればいい?」
「んー、じゃぁ次はそれを切ってくれるかな?」
「了解」
「澪っちぃ、私は何をすればいい?」
「んー、じゃぁ都ちゃんとキスケは生地作ってくれる?」
「いえっさー」
澪の母親は料理が非常に上手く、実際に料理教室なるものも開いている。その為かどうか理由は定かではないが、澪も料理に関してはかなりの自信がある。毎日の澪の弁当も実は自分で作ったものだ。だから澪は調理実習の時よくクラスメイトに頼られることが多い。
「確かに澪っちって料理うまいよねー。この腕だったら葵といい勝負かも………」
「葵?」
「あぁ、いや私の友達なんだけどね。その子もまた料理がうまいのよ。あんな子に毎日ご飯つくってもらえるなんて、兎尽月くんが羨ましい………」
「とつきづき?」
深霧は意外そうに澪の顔を見、言った。
「織神は知らねぇのか。兎尽月黒。変わった名前だから大体の奴は名前だけでも知ってると思うけどなぁ」
「んーん、知らない。どんな人?」
「まぁなんとも形容しがたい奴なんだが………、まぁとりあえず、黒いな」
「黒い?肌が?」
「いや、肌は白い。かえって白すぎるくらいだよ。ただ髪とか瞳に光がないっつぅか、なんだろうな………、光が入り込む隙間が無い程に漆黒なんだよ。まるで絵の具で塗りたくったように黒いのさ」
「ふぅん………、性格は変わってるとか?」
「いや俺もそこまで話したことないからなんとも言えんが、性格はそこらの高校生と変わらないよ。付き合いやすい奴だし、人あたりもいいしな。だからこそ、アイツってよく理解らねぇんだよなぁ………」
「混沌だよ」
さっきからずっと黙り込んでいた樹輔がようやくと口にしたのはそんな一言だった。

「どういう、こと?」
「あいつの存在はまさに混沌の一言で言い表せられる」
「………?」
「兎尽月は本来此処にいてはいけない。あの存在はこの座標に在ってはならない」
その言葉は言葉以上の質量を持ち、その空間を大きく支配していく。
ジワジワと、シトシトと、その質量は増大していく。
それはまるで、×××のようだ。
「アイツの存在はこの世界に酷く不釣合いだ。それはまさに夢が現と交わるが如く、その異物感はより際立ち、泡立つ。アイツとオレ等ではまるで水と油、それは決して溶け込むことはないし、混ざり合うこともない。それなのにあの存在は大きくオレ達に影響を及ぼし、さらに性質が悪いのは彼はオレ達に溶け込みたいと考えていることだ。はっ、なんて愚かしい。水と油の関係で、対極の位置で、対偶の存在で、そんなことを望むなんて愚考で愚行だとしか言いようの無いことなのに。そんなの醜いアヒルの子と同じだ。自分は他とは圧倒的に絶対的に、絶望的にまで異なっているというのに、彼はそれでも仲間になりたいと願うのか。それはあまりに悲惨で無惨すぎる。残酷で惨酷すぎる。だからオレはその存在を認めないし、その総てを拒絶する。その全てを否定する。それはオレの意思にはまったく関係なく、感情が関与することも赦されず、それはそれがまるで当然かのように、極自然の因果律の如く、本来の立ち位置に戻ったと言わんばかりに、もっと根元の根底の根本的なところで、絶望的に絶対的な不文律であり、超必然的な自然律」
「………キスケ?」
澪は急な樹輔の豹変に戸惑い、いや、澪だけではない。深霧も栢森さえ、何も口にすることが出来ない。
まるで――――――別人のようだ。
「別にアイツから何かをされたわけでもないし、何かをしたわけでもない。まして嫌ってなんて断じてない。ただオレは直感しただけだ。………アイツと目と目を合わせた瞬間にな―――ほら、よく『目は人の心を映す鏡だ』って言うだろ。―――――オレはそれで気づいてしまった、彼が所有する絶対の違和感に。――――――彼の歪さに」

――――――それはまるで、壊れた歯車のように

「アイツは―――此処に、いてはいけない」


「――――――………なーんてな」
気がつけば、樹輔はいつもの樹輔に戻っていた。
なに一つ不自然なところはない、いつも通りの、彼だった。
「………」
「ほら、何やってんだよ。早くしねぇと、授業終わっちまうぞ」
「う、ん!そうだね」
ほんの少しのわだかまりを残して、四人はそれぞれ各々の作業を再開した。













帰り道。澪は樹輔と二人で帰路を辿っていた。
会話はない。
「あの、さ」
「あっ?どうした、澪」
「つかぬ事をお聞きしますが」
「だからなんだよ」
「樹輔は、どうしてあの時、あんなこと言ったの?」
あの時――――――つまり、調理実習の時間。

――――――アイツハ此処ニイテハイケナイ

「あぁ………、あれ?」
「うん」
「………あー、なんていうのかな………」
樹輔は返答に困っている。いや、困っているというよりは迷っている。
「いや、ほんとにアイツのことが嫌いとかそんなんじゃねぇんだよ。それはあの時も言ったが、断言できる」
「じゃぁ、なんで?」
「いや、本当にあの時言ったことが全てなんだよ」
「?」
「本当にアイツを見た時に、直感的に理解っちまったんだ。………そうだな、例えば――――――合成写真ってのがあるだろ」
「うん」
「あれって、オレ達が見たら『この絵、浮いてるなぁ』ってすぐにわかっちまうもんじゃん。それとおんなじだよ。オレが兎尽月を見たら、アイツの存在が、この世界で明らかに浮いていた。それを証明しろって言われたって――――――オレはその術を知らないし、する気もさらさらないが――――――おそらくそんなこと不可能だろうな。だが、オレは確かに感じとった。奴の自然なまでの不自然さを、な」
自然なまでの不自然さ――――――意識の網すらもすり抜けてしまう程にそれは極当たり前に、逸脱している。
「………」
「そういうことさ」
樹輔はそれ以上その話をするつもりはないらしく、早々と話を切り上げた。
まるでこれで終いとでもいうかのように。
事実、それは樹輔にとって全てであるのだろう。
それ以上でも、それ以下でもない。
それですらない。
「まっ、あんまり気にする必要はねぇよ。所詮は戯言もいいとこだ」
「うん……」
「そんなことより、お前買い物はいいのかよ。今日は確かお前んちの母さんいないんだろ?」
澪の母が料理教室で家にいない時はいつも澪が料理を担当している。
そして今日も澪の母親は家にいなかった。
「あっ!そうだった!!」
澪は今更のように思い出し、思い出したら思い出したで今度はひどく動揺している。
「あぁ、どうしよっ!!まだメニューとか全然考えてないよぉ!!」
「落ち着け」
「とっ、とりあえず近くのマーケットに行かなくちゃ!!」
「オレも手伝おうか?」
「えっ、ほんと!?たすかるぅ!!」
澪はキスケの手を握って、大きく振りながら喜んでいる。
「キスケ、いいひと!!」
「………それはどうも」











澪と樹輔は近くにあるスーパーマーケットに行き、そこで今日の夕飯の具を買った。
鶏肉、にんじん、たまねぎ、じゃがいも。どうやら今日はカレーらしい。澪はなんだかやけに機嫌がいい。終始顔の筋肉が緩みきりである。
「おい、澪。なんでお前そんな機嫌がいいんだよ」
「えっ?ひ・み・つー」
「気持ち悪いやつだな………。何があったんだ?」
「教えてあげないよーだ」
スーパーを出て、横断歩道のある方向に足を進める。ちょうどその信号は赤だった。二人はそこで立ち止まり、信号の色が変わるのをゆっくりと待つ。向かい側では可愛らしい少女とその母親らしき人物が同じく横断歩道で待っていた。
「えへ、キスケ、楽しいね!」
「ん?あぁ………、そうだな」
樹輔は何がそんなに楽しいのかと少し疑問に抱きつつも、澪に適当に相槌を打つ。
「へへぇ………」
澪はその返答に満足したのか、樹輔を見ながらうれしそうに笑いかける。
本当に嬉しそうな笑顔。本当に楽しそうな、横顔。
だがしかし、『本当』という言葉には、どれ程の意味が籠められているのだろうか―――?
「ん、信号が青になったぞ」
「あっほんとだ」
向かい側の女の子は信号が青になったのとほぼ同時に駆け出した。母親はその姿を微笑ましく見ながらも、その子をなだめようと追いかけようとする。
「おかーさん、早くー!」
「ほら、待ちなさい、葉………」
その時、樹輔の視界の片隅にはっきりとソレが映し出されていた。
その自動車が、止まる事無く直進を続けているのを。
「ちょっ!?あぶなっ………!!」
パーン
「こ………?」
樹輔の静止などまるで意味を成さないかのように、母親の目の前で、その少女は、軽トラックに跳ね飛ばされた。
そのあまりに軽い少女の躯はしばらく空中を泳ぎ、
グシャッ
鈍い音をたてて、地面に叩きつけられる。
その姿を、母親だけではなく、樹輔や、澪も目の当たりにした。
「へっ………?」
「みっ………、見るな!澪!!」
樹輔は澪のその矮躯を抱き、顔を自分の胸に押し付け、無理やりその現場から目を離させた。
「よっ、葉子!?」
母親はその少女に駆け寄る。がその少女はどう見ても、誰もが理解してしまう程に、
惨ったらしく、酷ったらしく、死んでいた。
身体はあらぬ方向に曲がり、口はだらしなく開き、ひどく赤色な血液は止まることなくそこから流れ出ていた。
そう、止まることなく――――――それはまるでその少女の命そのものかのように、抑えても抑えても、こぼれ出る。
駆け寄り、首を支える母親の手や服にも少女の血がぬちゃりと、泥水のようにへばりつく。
「よ、うこ………」
少女は、あまりに唐突に、まるで賽でも振ったかのような簡潔さで、あまりに呆気無く、死んでしまった。
「よう、こ………、……こ」
母親の口から漏れでるその声は本来なら風に掻き消されてしまう程にか弱いのに、何時までも樹輔達の耳に響き続けた。
空気を揺らすというよりは空気を揺さぶる。
耳小骨が振動するというよりは、脳に反響する。
そんな声。

そんな、悲痛の声。

「よっ葉子、……子………葉子、葉子ようこようこ、……こ、ようこ、葉子、ぅ、葉子起きて、いつもみたいに、…はようって、言っ、て………、うぅ、ようこ、ようこ、よ……こぉ………」
まるで呪詛のように、少女の母親は彼女の名前を呼び続ける。だがその少女はもう決してそれに応えることは無い、応えられはしない。それはあまりに悲愴で、誰もが目を逸らしたくなる程に、無残な光景だった。
「………ぅ」
樹輔は吐き気を抑えることしか出来ない。
無力で、無力でしかない彼に出来るのは、それくらいしか――――――無かった。

「――――――な、んで………?」

樹輔の胸元で、澪は小さく呟いた。

その声はあまりに小さくて誰の耳にも届かない。

誰の耳にも―――それは自身さえにも。

あまりに小さくあまりに心細い囁きは、まるで 己を欺くかのように、掻き消えた。












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